北条氏康1
防炎加工
生地変更
―武将のぼりとは―
複数の武士団が入り乱れる戦場で敵見方を区別するために掲げられたのぼり旗です。
家中によってその仕様は様々であり、武将によっては複数のデザインののぼり旗を掲げていたとも言われています。
京都のれんでは、実際に存在したと言われているデザインから、各武将の解説のより、存在したのではないか?と思われるデザインまで。様々な「武将のぼり旗」をご用意しております。
【北条氏康】
戦国時代の武将。相模の戦国大名。
武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。
<基本仕様>
サイズ :180cm×60cm
素材 :ポリエテルポンジー
染色技法:昇華転写
縫製 :四方三巻
チチ位置:左チチ(左5つ上3つ)
1枚ずつPP入れ
戦や政治を得意とした北条氏康
北条氏康は、戦国時代を代表する武将の一人で相模国(現在の神奈川県西部と静岡県東部)の戦国大名です。
後北条氏2代目当主の北条氏綱の嫡男として1515年に生まれた氏康は、父親である氏綱の跡を継いで1541年に当主となり、1571年に没するまで当主を嫡男の氏政に譲った跡も実質的に後北条氏を率いてその最盛期をもたらしました。
北条氏康の戦国大名としての特徴は戦上手であると同時に政治的手腕にも優れ、近接する勢力との外交や内政にも成果を上げていることだと言えます。
関東管領の権威が落ちて群雄割拠状態だった関東一円で、河越城の戦いや古河城の戦いなど苦戦をしながらも勝ち続け関東一の実力者となります。
その後は、甲斐の武田信玄や駿河の今川義元と同盟を結び、後顧の憂いを少なくして関東経営に力を入れます。
上杉謙信の度重なる関東侵攻もはねつけています。
領地となった土地には検地を行い、税制も含めて領民の負担をできるだけ少なくして領民からは大きな支持を得ていました。
これらの内政は、徳川家康が江戸幕府を開いたときに参考にして取り入れたと言われています。
また氏康は、その当時を代表する教養人の一人でもあり、和歌や蹴鞠などにも優れた技を持っていました。
このような北条氏康ののぼり旗は北条鱗と呼ばれるもので、白地に黒で3個の二等辺三角形を組み合わせたものです。
シンプルですが落ち着いたデザインで、派手ではなくとも確実に成果をあげ続けた北条氏康らしいものになっています。
京都市中京区にある京都のれん株式会社で製造しているのぼり旗にも、北条鱗をデザインしたものがあります。
格調の高い北条氏康ののぼり旗は、さまざまな場面で活用できるのではないでしょうか。